岩手盛岡つなぎ温泉

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ようこそ、つなぎ温泉へ。源義家も癒された歴史ある名泉

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つなぎ温泉の歴史

平安末期の康平年間 1058年〜1065年、源義家(みなもとのよしいえ)が安倍貞任(あべさだとう)を攻めた時(前九年の役)、本陣を「湯の館」(現‥岩手県盛岡市繋温泉(つなぎ温泉)、南方の山麓)に置いた。この時、義家は温泉が湧いているのを発見し、愛馬の傷をこの温泉で洗うと快癒したので、義家も愛馬を穴のあいた石に繋いで入浴したと言われ、以来繋温泉(つなぎ温泉)と呼ばれるとうになったと伝えられている。

源義家

源義家(みなもとのよしいえ)は、平安時代後期の武将、八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られている。 後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。 比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。 その後約10年間は閉寒状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許された。 その活動時期は摂関時代から院政時代に移り変わる頃であり、政治経済はもとより社会秩序においても大きな転換の時代にあたる。このため歴史学者からは、義家は振興武士勢力の象徴ともみなされ、後三年の役の朝廷の扱いも「白河院の陰謀」「摂関家の陰謀」など様々な憶測がされてきた。生前の極位は正四位下。

前九年の役

源義家の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から、元々は「奥州十二年合戦」と呼ばれており、『古事談』『愚管抄』『古今著聞集』などにはその名称で記されている。
ところが、『保元物語』『源平盛衰記』『太平記』などでは「前九年の役」の名称で記されており、それが一般化して現在に至る。これは源頼義が本格介入した年
を基準として戦乱を9年間と計算した説や、「奥州十二年合戦」が「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解され、12年から3年を引き、前段について「前九年の役」と呼ぶようになったなどの説がある。また戦乱を13年間としている書物もあり、年数計算については諸説ある。
さらに、「役」の表現には「文永の役「弘安の役」(元冠)」同様、華夷思想の影響が多分に見られ、安倍氏が支配した東北が畿内から異国視され、安倍氏自体も「東夷」として蛮族視されていたことを物語る。しかし後世に成立した『平家物語』などでは、安倍氏に同情的な記述も見られる。
また、今日では「前九年合戦」という表記がなされることもある。

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